十字架と復活
07 4月 2012 コメントする
in ひとりごと, キリスト者向け, 神学, 思考, 信仰 タグ: 十字架, 復活
十字架はキリスト教会のシンボルだ。
それは、救い主が私たちの罪を担って、父なる神に捨てられ、十字架の上で処刑されたという痛みと愛の証だ。
十字架は現在である。
十字架は今、僕らに問いかけている。一緒に死ねるかと。決して裏切らないと言えるかと。
一番弟子のペトロでさえ、従えなかった。誰も、主に従うものはいなかった。弱さゆえに。そのため、主は死んでしまわれた。
けれども、その弱さと裏切り、主を死に追いやった罪、それらすべてから私たちを解放する出来事が起こった。
それが、三日目のご復活だ。主は命を得られ、また、私たちは主と一緒に新しく生きることを約束された。
復活は現在である。と同時に未来でもある。
主を信じる人は、すでにその命を得ている。しかし、今は鏡に映すようにおぼろげに見ている。
確実に顔と顔とを見合わせるのは、終わりのときだからだ。
すべての人のために十字架という入口が存在し、復活という出口が存在する。
復活、それは救い主が私たちの罪を滅ぼし、父なる神が新しい命をお与えになった、ゆるしと愛の証なのだ。
見える形のシンボルはないが、復活はキリスト教会の信仰そのものなのだ。
「あげる」と「ください」
01 4月 2012 コメントする
in ひとりごと, 言語, 思考, 日本語, 一般向け, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張 タグ: 日本語
前にも書いたけれども、僕は漢字を多用するのは好きではない。
特に、訓読みにおいてはなるべく、ひらがなを使いたいと思っている。漢字は表意文字であり、パッと見ただけで、意味を伝えることに有効なので、もちろん使うけれども。
さて、今日初めて知ったことがある。と言っても、僕はその考えには反対なのだけれども。
それは、「下さい」と「ください」との使い分けだ。「下さい ください」で検索すれば、すぐ出てくる。概して、こんな内容だ。
「~を下さい」と動詞として使う場合には、漢字で「下さい」と書き、「~してください」と補助動詞として使う場合にはひらがなで書くべき。
確かに、補助動詞に漢字を使うのは好ましくない。それには賛成だ。しかし、本動詞であったとしても、別に漢字に義理立てる必要なんてない。
人にものを「あげる」というとき、「物を上げる」と書くだろうか? 書かないだろう。では、なぜその反対の「ください」だけ、「下さい」と漢字で書く必要があるのか?
「あげる」と「ください」は一対のものなのだ。僕は、20年ほど「ください」しか書いていないが、何も困ったことはない。
僕はひらがなでよいと思うが、どうだろうか?
「夜ごはん」と「口が渇く」
18 3月 2012 コメントする
in ひとりごと, 言語, 日本語, 一般向け, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張 タグ: 日本語
みなさんは、引っかかる日本語ってありませんか? つまり、聞くと「んんっ!?」と違和感を覚える言葉です。
僕が気になってしまうのは「夜ごはん」という言葉です。「夜ごはん」って、あなたは言いますか?
もし、言わない人なら、オッサン、オバハンの類になっているのかも!? ちなみに僕は言わないので、オッサンです。「夕ごはん」とか「晩ごはん」と言います。
僕が知っている限りでは、若い子はみんな「夜ごはん」と言います。でも、僕のようなオッサンには、どえらい違和感、大あり食いです。
「夜ごはん」という言葉は、たぶん「あさ」「ひる」「よる」に「ごはん」をつけて生まれたのでしょう。まぁ、言葉は生き物なので、新しい言葉としてありだろうとは思いますが、どうも好きになれませんけどね……「夜ごはん」。
あと、もう一つ、嫌ではないけれども、僕は使わない言葉として紹介したい言葉があります。それは、「口が渇く」です。
どうです? 使いますか?
僕の知っている限りでは、団塊世代より上の人が使うように思います。
時代と共に、日本語も変わりますよね。
「~を通して」と「~を通じて」の違い
09 3月 2012 コメントする
in 日本語, 一般向け, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張 タグ: 日本語
最近、僕がハマっている Lang-8 で、日本語勉強中の方に対して、色々と日本語について解説することがあるのですが、我ながらうまく説明できた、と思ったことがあったので、載せておこうと思いました。
それは、「~を通して」と「~を通じて」の用法の違いについてです。
この二つは、現在の日本語においてはほぼ同じように使われているのですが、やはり出自が違う分、ニュアンスが違っており、人によっては違和感を覚えたりします。
僕なりに次のように説明しました。
「通して」の元の形は「通す」です。一方、「通じて」の元の形は「通じる」です。古典では「通ず」です。
日本語で、「す」で終わるものは能動的なニュアンスを持ちます。「通す」は能動的に、たとえば「針に糸を通す」ようなイメージがあります。能動的なので、「一生懸命」という言葉と一緒に使えます。
○「一生懸命針に糸を通す」
でも、「偶然」という言葉と一緒には使えません。
×「偶然針に糸を通す」
「通じる」は、自発的に「つながる」というニュアンスがあります。自発的なので、上のとは逆で、「偶然」という言葉と一緒に使えます。
○「偶然電話が通じた」
でも、「一生懸命」という言葉とは一緒に使えません。
×「一生懸命通じた」
もう、両者の違いはハッキリしましたね。例文を用意してみました。
- 「~を通して」の用法……「(一生懸命)インターネットを通して宣伝する」能動的
- 「~を通じて」の用法……「(偶然)インターネットを通じて知り合う」自発的
含蓄のある「やまとことば」~「ゆるし」「すくい」「よみがえり」そして「いきる」
25 2月 2012 4件のコメント
in ひとりごと, キリスト者向け, 聖書, 思考, 日本語, 一般向け, 信仰, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張 タグ: やまとことば, 生きる, 聖書, 救い, 日本語
日本語には色々な言葉があるけれども、僕は個人的には、あまり漢字を多用するのは好きではない。
もともと日本語は、個々の単語の持つ意味が広い言葉だと思う。
たとえば、「かく」という言葉。漢字で書けば、「書く」とか「描く」とか書き分けなければならないが、絵でも字でも本来は同じである。もっと言えば、「頭を掻く」とか「水を掻く」とか、そういう手の動き全般を「かく」と言っていたわけだ。漢字はそういう「やまとことば」よりも、意味が細かく絞られている。だから、表意文字である漢字を当てはめるときに、本来一つだった「かく」という言葉が、いくつにも分かれてしまうわけだ。
「こころよい」という言葉、「こころ」+「よい」なので、「心良い」でもよいと僕は思うが、「快い」と書かないといけない。なのに、「ここちよい」は「心地良い」であって、ちょっと納得いかなかったりする。「みちびく」も同じ。「道引く」でもよいと思うのだが、「導く」と書かないと間違いとされてしまう。
漢字は便利なものだと思う。確かに、ひらがなばかりでは、分かち書きをしないと読みにくい。また、表意文字である漢字は、パッと見るだけで意味がススッと頭に入ってくる。でも、日本語が本来持つ「広い意味」がバラバラにされてしまうのは、本来持つイメージのつながりが失われてしまうような気もしている。とりわけ、聖書のことを解釈するのには、この日本語が非常にマッチしている。
「ゆるし」という言葉。「許し」「赦し」などあるが、「緩める」という言葉と元は同じで、「緩す」という書き方はないが、そう書いてもよいだろう。相手を責め(攻め)の呪縛から解き放つ行為、それが「ゆるし」なのだ。このイメージがあると、「ゆるし」は自由を与える行為であることがわかる。実は、聖書に書かれている「アフェシス」はこの日本語の「ゆるし」に近い。
「すくい」も通常は「救い」と書かれるが、「金魚すくい」の「掬い」も日本語では元来同じ言葉だ。「すくう」とは対象の下から上に持ち上げること、つまり、神であられた神の子が馬小屋に生まれ、十字架に死刑となり、黄泉(よみ)に下られ、つまり、わたしたちを下から「すくう」ために、わたしたちよりも下られた、だからこそ、わたしたちは「すくわれた」のである。
「よみがえり」のかたちで「すくい」は成し遂げられた。「よみがえり」は「甦り」とか「蘇り」とか書き方がある。キリスト教会では、更に生かされる「甦り」を使う。「蘇り」は「蘇生」の意味なので教会では使われない。でも、主キリストにとっては「黄泉帰り」なのだ。
「いきる」ということ、それは「生きる」と一般的には書かれる。「活きる」と書けば、意味を持って活動するイメージとなるだろう。聖書には主キリストが息を弟子たちに吹きかけ「聖霊を受けなさい」とおっしゃる場面がある。そう。つまり、「息る」なのだ。こうしたすべてのイメージが、漢字だけで書かれているとバラバラになってしまっているが、「いきる」という日本語にはこのようなイメージがすべて含まれた含蓄のある言葉なのだ。
日本語本来の持つシンプルで含蓄のある広い意味を、僕は大切にしていきたい、そう思っている。
Lang-8のこと
01 2月 2012 コメントする
最近利用し始めたサービスで、Lang-8 というサービスがある。
これは、一言で言えば、自分が学びたい外国語で記事を書き、その外国語を母語とする人が添削を行うサービスで、無料で利用できる。もちろん、有料会員サービスもあるけど、僕が使うのは、この WordPress.com と同様、無料の方である。
要するに、世界中の人がこのサービスを利用しており、自分は日本語記事を見つけては添削し、自分が外国語で記事を書けば、志のある方に添削してもらえるということだ。
自分の母語や学びたい外国語を登録することになっているので、探さなくても表示されるようになっている。もちろん、別の言語の記事を見ることも可能だ。
僕は、これまでの SNS はニガテだったのだが、これは喜んで利用させてもらっている。
言語スキルを向上できることが嬉しいのだ。外国語を学ぶ人には、ぜひお勧めのサービスである。
主の祈りと「わたしたち」
13 1月 2012 コメントする
in キリスト者向け, 祈り, 神学, 一般向け, 信仰 タグ: わたしたち, Lord's Prayer, 天主経, 我ら, 主の祈り
「祈り」というものは、概して個人的に捉えられる傾向がある。
けれども、教会で行われる礼拝は「公祷」であり、「教会」という共同体としての祈りである。
当たり前のことなのに、昨日ハッと気づいたことがある。分かち合いたいので、こうしてブログ記事にする。それは、毎日祈っている「主の祈り」が公祷だということ。主の祈りは、この記事の末尾に引用しておいた。本文では口語体であるカトリック聖公会共通訳を用いる。
まず最初から、「天におられるわたしたちの父よ」で始まる。「私」の父なのだけれども、ここはあえて「わたしたち」の父なのだ。「わたしたち」とは誰か? 祈りを合わせている人すべて…… いや、神様は万物の父なる神様なのだから、「わたしたち」は生きとし生けるものすべてなのだ。祈っている人からすれば、となりのおばさんも、近所の赤ちゃんも、お寺の住職も、神社の神主も、刑務所にいる人も、犬のポチも猫のタマも、すべてひっくるめて「わたしたち」なのだ。
ここから、この祈りが始まる。ギリシャ語では、「パテル イモン(パーテル ヘーモ~ン)」と言う。「パテル」は「父」、「イモン」は「わたしたちの」だ。ここで、父なる神様とわたしたちが一つの絆で結ばれていること、また、わたしたちもみな仲間であることを再確認する。
神様への賛美の後、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と続く。ここから、「わたしたち」という言葉がくどいほど出てくる。僕は、この翻訳何とかならんかな、と思っていた。少なくとも、ギリシャ語原文では、「わたしたち」に関する単語が頭には来ないからだ。けれども、「わたしたち……わたしたち……」と続けていてハッとしたのだ。僕は今まで、「わたしたち」と言いながらも、頭の中では「私の……」というつもりで祈ってしまっていたことに気付いたのだ。
「わたしたちの日ごとの糧」、それは自分や家族だけのことではないのだ。神様が恵みを与えてくださっているから、今がある。災害に遭われた方々のためにも、毎日ここで祈るのだ。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」というのは、「私が人を許すから、私の罪を許してください」という単純な意味だけではない。「私」ではないのだ。「わたしたち」なのだ。ここに執り成しの祈り、人を許し切れない懺悔の祈りが込められている。「ゆるします」――キリストによって、すべてが赦される、その恵み、命の福音がここに来ていますという信仰を持って宣言しながら祈るのだ。
個人的な祈りもあるだろうけれども、全世界、全教派で共通なこの「主の祈り」。それは、すべてのものにとって共通の「主」なる方が「わたしたち」に教えてくださった祈りであるからだ。すべてのものの主に栄光がありますように†
主の祈り(カトリックと聖公会)
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン
主の祈り(プロテスタント)
天にまします我らの父よ、願わくはみ名を崇めさせ給え、み国を来たらせたまえ、み心の天に成る如く、地にもなさせたまえ、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ、我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ、国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり、アーメン。
天主経(正教会)
天に在(い)ます我等(われら)の父や。願はくは爾(なんじ)の名は聖とせられ。爾の國は來たり。爾の旨は天に行はるるが如く、地にも行はれん。我が日用の糧を今日(こんにち)我等らに與(あた)へ給へ。我等らに債(おいめ)ある者ものを我等ら免(ゆる)すが如く、我等らの債を免し給へ。我等らを誘(いざない)に導かず、猶(なお)我等を凶惡より救ひ給へ。蓋(けだし)國と權能と光榮は爾に世々に歸す「アミン」。
名古屋で名古屋ことばが通じにくい
04 1月 2012 コメントする
in ひとりごと, 名古屋ことば, 日本語, 一般向け, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張
18歳まで名古屋に住んでいた。去年、40歳になる年に再び名古屋に仕事通いをするようになった。その時に感じたショッキングな出来事を語ろう。それは、「名古屋なのに、名古屋ことばが通じにくい」ということだ。
業界にもよるかもしれないが、職場で出身地を尋ねると、名古屋ネイティブはほんのわずかなのだ。だから、職場で名古屋ことばを使ったときに、「え?」と聞き返されてしまうことがあった。仕事はスムーズに意思の疎通をしなくてはならない。そのため、共通語を話すようになっていくのだ。
こういうショックは、高校生まで名古屋で過ごした頃は感じたことがなかった。理由は簡単、子供の頃は皆、地元民ネイティブばかりだからだ。でも、大人社会では、地元民だけではなく、様々なところから多くの人が働きに来ている。そこで必要となるのは共通語なのだ。
「郷に入っては郷に従え」という言葉がある。だが、名古屋の場合、風習は結構名古屋式を残すことが多いように感じるが、言葉に関しては廃れ度が大きい。それは、名古屋民自体が、自らの名古屋ことばに対してコンプレックスを持っていることに起因しているようである。
名古屋市:平成21年度第3回市政アンケート(調査結果) (市政情報)
上記ページの中に次の結果がある。
http://www.city.nagoya.jp/shiminkeizai/cmsfiles/contents/0000004/4210/21-3-1kekka.pdf
これを見るとかなり危機的な状況であり、印象にいたっては「親しみがもてる、田舎的、温かい、汚い、面白い」が上位となっている。田舎的とか、汚いといった否定的な印象が上位を占めていることからも、コンプレックスが読み取れる。
名古屋ことばに限らずだが、どの方言であっても、もっと大切にされるべきだと思う。田舎的とか、汚いとかは、中央集権的なバイアスがかかった価値観を植えつけられた結果のような気がしてならない。
ただ、他の土地に住んで思うのだが、名古屋ことばは不利であることは確かだ。キツイ言い方と受け取られ、名古屋ことば話者以外には怒っているように聞こえるようで、僕の経験上、名古屋ことば話者以外に名古屋式のイントネーションで話すと、コミュニケーション上に支障をきたす。円滑なコミュニケーションのためには、名古屋ことばを捨てざるを得なかったりするのだ。
他地域で名古屋ことばを捨てるのは、仕方がないと思う。でも、名古屋で名古屋ことばが使えんいうのは、ちょっと悲しい。名古屋以外の多くの方が名古屋に働きに来られていることは理解しとるつもり。でも、本音ではこう思っているのですょ。「何で名古屋ん中で名古屋ことばが通じーせんのだて? ほぃじゃ、名古屋ことばはどこで喋りゃえーんだて? 名古屋ことばの居場所があれせんがね。おかしいがや!」と。
名古屋ことば(名古屋弁)は最先端!?
04 1月 2012 コメントする
in 名古屋ことば, 日本語, 一般向け, 信仰やソフトウェア以外の分野での主張 タグ: 名古屋ことば, 名古屋弁
僕は、名古屋ことばをこよなく愛している。名古屋ことばとは、いわゆる名古屋弁のことであるが、名古屋市の WEB サイトでも、「名古屋ことば」と書かれている。
名古屋市:名古屋ことば(暮らしの情報)
この理由は、河村たかし氏のページにラジオ放送が残っており、そこで述べられている。~弁という言い方は、共通語を「標準語」とし、それに対して地方に対しての差別意識を込めて使われたという経緯があるらしい。そして、NHK の表記は、「~ことば」と改まったということなので、僕はその時代の感覚はよくわからず、「名古屋弁」という言い方が差別的には感じないが、こうした経緯を踏まえて「名古屋ことば」という表現を使うことにしよう。
http://1.takashi-kawamura.com/nagoyaben.htm ←ここの下の方に、この経緯についてのラジオ コンテンツがある
少し、上記ページのことについて述べよう。これは河村たかし氏の WEB サイトの一部だったもので、フレーム内部に表示されるページだったが、2012年1月現在、トップ ページなどからのリンクは切れてしまっている。ちなみに、ページ末尾にある則竹勅仁氏の投稿の「のじくる」という言葉を僕は知らなかった。同じ意味の言葉として「ねだくる」を使う。名古屋ことばも範囲が広いので、一様ではない。河村たかし氏が話しておられる名古屋ことばは、僕の名古屋ことばと、ほぼ100%一致する。河村たかし氏は東区古出来、僕は中区大須で近いから? でも、則竹勅仁氏は中区出身だということである。町や川の境界や親の言葉なども違いもあるかもしれない。ちなみに僕の場合、育った環境は、母が今池、父が堀田、本人は大須である。
さて、今回の本題だが、何が最先端なのか? それは、僕が東京でラジオ放送を聴いていて感じたのだ。
そのラジオでは、「正しい言葉が最近は変わってきてしまっている」という内容だった。「映画」「美人」という言葉に触れ、正しくは「エイガのエに高アクセント」、「ビジンのビに高アクセント」なのに、最近は、「エーガ」と平坦に発音、「ビジンのビが下がる」と嘆いている内容だった。しかし、元来の名古屋ことばでは「美人」は元来の東京ことばと等しくビを高く発音するが、「映画」の方は平坦に「エーガ」と発音する。もっとも名古屋でも東京と同様に若者はビを低く発音する傾向があると思うが。
そのラジオでは続けて、ラ抜き言葉の嘆きが始まった。可能を表す表現として「食べられる」が正しいのに「食べれる」と最近は言うというのだと。名古屋ことばは違う。「食べられる」は受身でしか使用せず、可能は「食べれる」が正しい。「られる」は受身、「れる」は可能を表すのだ。だから、名古屋ことばでは、5段活用動詞の場合、「歩ける」ではなく「歩けれる」という表現を使う。「疲れてまって、まー歩けれーせんがや」と使う。(共通語訳:疲れてしまって、もう歩けないよ)
つまりこれは、東京のことばが名古屋化してきているのか? 少なくとも東京サイドはそうは思っていない。東京にとって名古屋は普段は意識にも登らない西の一地方であり、特に名古屋はイジラレ対象、小馬鹿にされる対象なのである。しかし、時代と共に名古屋ことばが本来持っていたのと同じ特質を獲得してきていることは、たまたまかもしれないが、事実である。
もう一つ。最近の若者ことばの「ヤバい」は、名古屋弁の「いかん」に通じるものがある。「あの店のアイス、マジヤバいって~」と言ったら、それはアイスが危険なのではなくて、心を揺さぶるほどおいしいという意味である。名古屋ことばで表現すれば「あの店のアイス、でらうまいでかん」となる(単独では「いかん」だが、通常は「~かん」と使われる)。
少し横道にそれるが、上記の「うまい」は、よく「うみゃー」と書かれるが、表記にするなら「うめゃぁ」が近い。が、これは発音上のことなので、この母音融合について表記上は「うまい」と書くことにする。なぜなら、名古屋ことばでは、「うまい」と「うめゃぁ」を区別しているのではなく、ただ「うまい」の発音が「うめゃぁ」となるからである。
「ヤバい」も「いかん」も、双方に共通するのは一見否定的な意味を持つように見えるが、それは平静を保っていられないほど感動するという意味を持っている。もっとも、「ヤバい」の方は「おいしい」とか「良い」とかいう肯定的形容詞の単語すらも飲み込んでいて、「いかん」とまったく入れ替え可能ではないが、ニュアンスとしては共通している。
このような新しい日本語の流れの中に、名古屋ことばと共通したものをふと感じることがある。また小馬鹿にされるかもしれないが、持論として最先端ということにしておきたいと思う。
キリスト教会と結婚式場
29 12月 2011 コメントする
結婚は、教会の中では大きな奥義を秘めています。しかし今回の記事は、結婚の意義そのものではなく、結婚にまつわる伝道論的な視点で一つの視点を記したいと思います。また、ホテル結婚式の是非については、今回は触れません。それについては、いずれ別の機会に見解を記すことにして、今回は、教会の結婚式について記します。
日本の世間一般には、「キリスト教会=結婚式場」というイメージがあります。教会の中にいると、結婚式というイメージはほとんどなく、まずは主日(毎週日曜日)の礼拝、聖餐(ミサ)が中心です。実際には、高齢化もあって、儀式としては、結婚式よりも、葬式の方が断然多いのが正直なところです。まず、ここにギャップがあります。つまり、教会は何をするところか? という認識です。教会は実際には、主日礼拝が中心であるのに、世間では結婚式場のように捉えられているのです。また、実際は「神様中心」なのですが、世間では「牧師と新郎新婦がメインキャスト」といったところでしょう。
僕が重要と考えるのは、世間は「キリスト教会=結婚式場」というズレたイメージを持っているということを、教会はよく認識する必要があるということです。そして、もっと大切なのは、ズレたイメージを持って教会に触れた人に対する、神様への接近の機会を失わせてはならない、ということです。
まず、最初から正しく教会や神様を認識してくる人はいません。そんな認識があれば、とっくに神様につながってクリスチャンになっているでしょう。世間のズレたイメージを持ってくる人がほとんど。でも、それでよいのです。
教会では、神様中心に考えます。でも、これまで教会とは無縁だった挙式希望者は、神様のことは抜けているかもしれません。というより、神様のことはよくわからないはずです。新しいパートナーと自分のこと、これからのことで精一杯だと思います。結婚という決断は、人生の一大事です。一つしかない体、一度きりの人生…… 結婚詐欺とかでないかぎり、自身の結婚に対して真剣にならないはずがありません。そうです。結婚を希望する人は真剣であるはずなのです。真剣なのに、神様のことはよくわからず、ズレた方向を向いてしまっているのが、通常なのです。
そこで大切なのは、その真剣に自分の人生を見つめる結婚という機会が、神様から与えられたこと、その人を神様が造り、愛しておられること、などなどを伝え、正しい方向に導くのが、教会の使命だということです。結婚を希望している人は、普段よりも真剣に神様や自分自身と向き合えるはずだと思います。また、聖霊なる神様がその人、教会を導いておられるということを信仰と畏れを持って受け止めて、暖かく迎え入れていくことが、大切なのではないでしょうか。
つまり、結婚という一つの大きな人生の基点は、神様との接点となりうる可能性を秘めているのです。なぜなら、結婚ということ自体、神様がお立てくださったキリストと教会の合一、神と人との和解を象徴する聖なる契約だからです。
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