「左様」と「右に同じ」との関係

「左様」という言葉に、ふと違和感を抱いた。元来日本語では文章は縦書きで、右から左に書くのに、「左様」とはいかなることぞ。

「さよう」とは「さ」+「よう」である。「さ」は「その」とか「それ」という意味である。「さばかり」とか「さほど」などを考えてみればわかる。「それほど」という意味である。「さ」を「左」と書くのは当て字でしかない。「左程」という言葉は、「音読み+訓読み」の「重箱読み」になってしまっている。しかし、もともとは「左」ではなく、「さ」なのである。だから、意味的には「右に同じ」と同じような意味がある。

だから、「さよう」とひらがなで書く方が、僕は好きである。「さようなら」という挨拶があるが、「左様なら」と書く人は、あまりいないだろう。これも同じ言葉なのだ。この挨拶は、「そうであれば」→「それでは」という風に解せばよくわかるだろう。

ついでに書くが、この「さようなら(それでは)」という別れ方は実に日本人らしいと思う。「では時間もお話も一段落しましたね。問題もなく、合意もできましたね。それでは、別れましょうか。」というニュアンスを一語に込め、お互いに阿吽の呼吸を保ち、その中で別れをほのめかしているように思える。例外もあろうが、本来そこには、一方的な別れの宣言ではなく、相手との合意に基づいた中での間接的な言葉による挨拶が交わされていると思うのだ。

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