ながら祈りの勧め

「ながら族」という言葉をご存じだろうか? 何かをしながら別のことをすることを悪しき習慣として、それが習慣化している者を揶揄する言葉だ。Wikipedia によると、1950 年代に生まれた言葉らしい。僕も「ながら族はダメ!」と教わり、躾けられ、生きてきた口なので、何かをしながら別のことはしないようにしている、というか、単にマルチタスクが苦手なだけなのだけれども。。。

最近では、マルチタスクをいかにこなすかかが重要であるような風潮があり、「ながら族」なる言葉も死語になっているのだろうと思う。

とはいえ、祈りについてはどうだろう。マタイ 6:6 では、祈るときに自分の部屋に入り、戸を締めて祈るように書かれているが、これは前節 6:5 に対して書かれた言葉だ。他人に見せつけるために祈るな、という教えである。もちろん、書いてあるように、他のことはせず、集中して静かな祈りの時を持つことは大切だ。目をつぶったり、手を組んだりするのも、祈りに集中するための行動だ。

しかし、それとは別に、「ながら祈り」があってよいと僕は思う。それは、何をするにつけても、祈りながら行う、ということだ。「ながら祈り」というよりも、正確に言えば「祈りながら」なのであるが、要するに「祈りの呼吸、常駐」である。

目が覚め、まだ布団の中にいる時も、顔を洗いながらも、トイレの中でも、シャワーをしながらも、歩く時も、座るときも立つときも、人と会う時も話しているときも、そしてスマホを見ているときであっても。すべて、祈りをもって行う。たぶん、神様からすれば嬉しいと思う。祈りの心を忘れるよりも、常に祈りを常駐させておくことは、信仰心を養うことにもなる。そして、誤った道へ行くことが減るだろう。

信仰は、実践である。なぜなら、僕らは皆、生きているからだ。生きているこの今の瞬間も、これを読む、という行動をしている。祈りつつ読むのがよいに決まっているのだ。僕の場合は、ひたすら「お導きください」と祈っている。そうすれば、神様は、絶対に必ず導いてくださるからだ。

もしも、間違っているかもしれない、と確信が持てない行動をとるときにも、「どうか正しくお導きください」と祈って行えば、修正してくださるに違いない。今僕は、祈りを持ってこれを書いている。あなたに祝福がありますように†

コメントを残す