嘆かわしい日本における「言語の中央集権主義教育」

今回は少し憤って投稿。日本における教育で、画一性を重んじ、多様性を認めないことについてだ。

Forvo という単語の発音を投稿するサイトがある。その単語がどのように発音されるものなのか、母語話者が発音を投稿するサイトで、イスラエルで開発された。僕は一時、355 単語もの録音をした。また、管理ボランティアもしていた。ただ今は、このサイトの仕組み自体に限界を感じて、関わっていない。

そこに投稿音声に対しての評価ができるようになっているのだが、共通語のアクセントでないと、評価マイナスをつける日本人が多数いるのだ。僕は、名古屋ことばの発音で録音している。だから、投稿数は多いが、その評価はひどいものである。マイナスだらけだ。発音したユーザーの出身地がが地図で明示され、言語的背景となるプロフィールがあるにもかかわらずである。当然、僕は名古屋の中区の大須で育ち、共通語とは異なるこの地方のアクセントで発音していますと明記している。

英語でも、日本ではアメリカ発音がスタンダードであると思わされている。シンガポールやインドなど英語を公用語としている国は沢山あるし、そうでなくても、英語は今や国際語の一つである。そこで色々な発音や色々な文法、綴りなどが存在し、そのどれが国際的標準なんてことはないのだが、日本における英語の認識は、本家のイギリスすら差し置いて、アメリカ一辺倒という印象を感じずにはいられない。

言語は生きた道具である。だから、使われる場所、人、文化、年代、分野などによって様々なのだ。もっと言えば、人によって一つとして同じ言語ではありえないのだ。そのあいまいな定義の言語同士をぶつけ合ってコミュニケーションが生まれる。当然、誤解も生まれるが、それはコミュニケーションしている者同士の言語に差があるから生じることも多いのだ。でも、そこで相手を理解しようとし、それができたとき、新しい理解の和が生まれるのだ。

言語は決して、静的な(死んだ)単一のものではない。たとえ一人の人の中の言語でも、それは流動的に生き、変わり続けるものなのだ。

日本人が外国語をなかなか話せないのも、「こう書かなくてはダメ」と、話すこともできないうちから、テストの答案に簡単に×をつけられてきたからだと思う。文法的に間違っていたって、言語は通じれば、それで用を成すのだ。そもそも、文法自体も様々だったり、変化したりするものだ。例えば、名古屋ことばでは可能動詞はすべて「れる」で終わる。共通語では「食べれる」は「ら抜き言葉」で間違いかもしれないが、名古屋ことばでは正しく、「見れる」「来れる」「飲めれる」「歩けれる」のようになる。つまり、日本での言語教育は、画一的な視点のみで、最初から生きた言葉を教えようとしていない。

いわゆる「標準語」についての一般的な認識が狂っているのも、教育に問題があると思う。ありのままの多様性を尊重し、認める教育が必要だと感じる。

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