三位一体の一体は一体どこから来たのか?

三位一体は、「聖三者一神」の方がシックリくるかもという記事を書いた。
この記事は、それに関する詳細な補完記事である。

各言語で見ても「聖三者」に関する訳語で「三位一体」のように「一体」を付けている訳語は漢語の他に見当たらない。では、この「一体」はどこから来たのか、という考察である。これは仮説ではあるがご参考までに公開するものである。

「一体」が登場した背景には、これは説明するときのラテン語、もしくは英語の神学用語が関係していると考えている。三つの神格に一つの実質ということを説明するのに、この「一つの実質」を説明する際、ラテン語では una substantia と訳された。una は一を意味する。そして、sub が下、stantia が立を意味するので、下に立つ基盤、つまり実体を意味する。これが英語になると substance となり、物質という意味をも持つ。えらく具象的だ。なぜなら、stantia =立が入っているからである。立っているのが一つということは一体というイメージがある。一方、ギリシャ語では「一つの実質」を説明する際には μία οὐσία(ウシヤ、一つの実質)と表現された。これは、substantia(実体)よりも抽象的である。なぜなら体よりも質の意味が強いからである。

興味深いのは、substantia と原意を同じくするギリシャ語の単語は ὑπόστασις(イポスタシス。ὑπό が下、στασις が立の意味)であるのだが、実はこれが「三つの神格」の方を表すのに用いられているということだ。つまり、τρείς ὑπόστασις なのだ。訳しようによっては「三つの実体」ともなろう。となると、「一体」ではなく「三体」の方がむしろ近いとも言える。お三方、なのだ。でも三神教ではない。実質一つだからである。だから正教会は「聖三者」と訳した。「三位」よりも「三者」の方が分かりやすく親しみやすい。三者の交わりの中に私たちは存在しているのだ。

では、ラテン語で「三つの神格」の方は何と表現したか。tres personae である。tres は三、personae は人格(神格)を意味するのだが、この personae が曲者で、仮面劇の仮面や役柄を意味した言葉である。persona は単数形で personae が複数形である。英語で言えば person である。

テルトゥリアヌスは Unus Deus, non tres Dei: sed tres personae in una substantia, id est, Pater, et Filius, et Spiritus Sanctus. と書いている。訳すと「唯一の神、三の神々にあらず。しかし、一つの実体の内に三つの神格、すなわち、父と子と聖霊」となるが、これは「一人三役」とも捉えられかねない。persona というのが仮面劇の役を表していたからである。persona に当たるギリシャ語の単語は πρόσωπον(プロソポン、複数形は πρόσωπα プロソパ、原意は顔)であるが、「三つの神格」を表すのには、この単語の使用を避けてきた歴史がある。それは、一人三役との誤謬を避けるためであり、τρείς ὑπόστασις としたのだ。στασις、stantia つまり「立」の印象は具象的であり、強い。つまり、力点はこちらにある。

つまり、言いたいことは、「聖なる三者一神の神」について、東方つまり正教会の伝統は三者に力点が置かれており、西方つまりカトリックの伝統は一神に力点が置かれてきたということである。それは、様態論などの異端と戦う必要があった東方世界の背景、多神教の文化史の中で唯一の神を強調する必要があった西方世界の背景などがあるだろう。

多神教が渦巻いていた西方世界は、カトリックで一神教になり、長い年月が過ぎ、当初とは背景が変化している。むしろ、宗教改革後のプロテスタントでは、父なる神の強調によりどちらかというと古代の東方世界のように、様態論を排除する必要性の方が強いと個人的には考えている。

そういう意味で、この現代日本の教会の中で妥当な表現として「聖三者一神」というのを提唱してみた。いずれにしても、聖なる聖なる聖なる、三つにいまして一つなる神に栄光がありますように†

聖なる三者一神

三位一体という言葉がある。基督教の神を指す言葉であるが、最近は用語の世俗化が進み、政治の世界などでも使われ出して、単なる三点セットのようなイメージが染みついてしまっている。基督教用語の世俗化については、教義を破壊しようと企む勢力による工作があるものと踏んでいる。クリスマス然り、イースター然りである。私はいっその事、教会は正しい意味を込めた言い方を模索し改めてもよいのではないかと思っている。たとえばクリスマスは降誕祭、イースターは復活祭と言った方が意味がよく通る。カタカナでは元の意味が分かりにくいからである。むしろ、現代日本において一般的にクリスマスと聞けば、主役はいえす基督ではなく、サンタ・クロースであり、イースターと聞けば復活ではなく、ウサギと卵だろう。だから、もう以前の用語は潔く世間に譲ってしまい、改めて意味のある漢字で表した方がよいと思っているのである。

三位一体という言葉は中国語から来ている。「三位」というのが分かりづらく、この単語は、日常使いの日本語では「競争の三着、三等」という意味になるだろう。しかも、「さんい」という読み方もあるが「さんみ」と発音されることが多く、余計にわかりにくい。そして、「一体」については問題があると思っている。「一体」という語がついているがために、父・子・聖霊の神が正しく捉えられないこともあると思っている。

基督教の伝統を保守的に重んじるハリストス正教会は、「三位一体」という用語を使わず、「至聖三者」もしくは「聖三者」という用語を用いている。これは非常に重要なことである。元々はギリシャ語 Ἁγία Τριάς(アヤ トリャス)と言った。アヤは聖、トリャスは三者(単数形)という意味であるから、正教会の日本語では「聖三者」と正しく訳されている。ラテン語では sancta trinitas である。意味はギリシャ語と同様である。英語では holy trinity である。いずれの言語でも、どこにも「一体」という語は含まれていない。単数形であるというのは重要なことである。唯一の神であられるからである。しかし、「一体」というのは非常に誤解を招きかねない表現である。なぜなら、「一体」という語は「一つの体」を意味してしまっているからである。(このことについての別視点の詳細な考察は別の記事に掲載したので、そちらも読んでいただければ幸いです。。。)

父・子・聖霊を例えるのに、水が氷になったり水蒸気になったりとか、家ではお父さん、学校では先生なんだよとか、そういう話を聞くことがあるかもしれないが、それは神学用語で「様態論」と言われる異端の教義である。つまり、立場や現れ方が違うだけで一つの存在ということであり、「三様一体」と言ってもよいかもしれないが、それは正統教義ではない。「一体」があると、一つの存在ということが強調されてしまい、このような誤解を招きかねないのではないだろうか。

父と子と聖霊は別人格(神格)を持っておられ、しかし、本質は同一であるというお方である。落語の一人芝居とは違い、それぞれが別々の人格(神格)を持った、そういう意味では独立したお方なのである。しかし、三つの神ではなく、唯一なのである。一つのチームのように捉えても許されるかもしれない。正教会のように「聖三者」がよいと思う。それか、三位一体に近い表現で行くならば「聖なる三者一神」でよいと私は思う。この表現は割と的確に表しているのではないかと思っている。

どちらにせよ、神様は、我々人間には捉えきれないお方であられるのだ。そして、間違っていようが、その愛を受け、賛美し、仕える者を正し、導いてくださるお方のはずなのだ。父・子・聖霊の交わりの中に入れられているこの素晴らしい恵みに感謝して生きよう†

ながら祈りの勧め

「ながら族」という言葉をご存じだろうか? 何かをしながら別のことをすることを悪しき習慣として、それが習慣化している者を揶揄する言葉だ。Wikipedia によると、1950 年代に生まれた言葉らしい。僕も「ながら族はダメ!」と教わり、躾けられ、生きてきた口なので、何かをしながら別のことはしないようにしている、というか、単にマルチタスクが苦手なだけなのだけれども。。。

最近では、マルチタスクをいかにこなすかかが重要であるような風潮があり、「ながら族」なる言葉も死語になっているのだろうと思う。

とはいえ、祈りについてはどうだろう。マタイ 6:6 では、祈るときに自分の部屋に入り、戸を締めて祈るように書かれているが、これは前節 6:5 に対して書かれた言葉だ。他人に見せつけるために祈るな、という教えである。もちろん、書いてあるように、他のことはせず、集中して静かな祈りの時を持つことは大切だ。目をつぶったり、手を組んだりするのも、祈りに集中するための行動だ。

しかし、それとは別に、「ながら祈り」があってよいと僕は思う。それは、何をするにつけても、祈りながら行う、ということだ。「ながら祈り」というよりも、正確に言えば「祈りながら」なのであるが、要するに「祈りの呼吸、常駐」である。

目が覚め、まだ布団の中にいる時も、顔を洗いながらも、トイレの中でも、シャワーをしながらも、歩く時も、座るときも立つときも、人と会う時も話しているときも、そしてスマホを見ているときであっても。すべて、祈りをもって行う。たぶん、神様からすれば嬉しいと思う。祈りの心を忘れるよりも、常に祈りを常駐させておくことは、信仰心を養うことにもなる。そして、誤った道へ行くことが減るだろう。

信仰は、実践である。なぜなら、僕らは皆、生きているからだ。生きているこの今の瞬間も、これを読む、という行動をしている。祈りつつ読むのがよいに決まっているのだ。僕の場合は、ひたすら「お導きください」と祈っている。そうすれば、神様は、絶対に必ず導いてくださるからだ。

もしも、間違っているかもしれない、と確信が持てない行動をとるときにも、「どうか正しくお導きください」と祈って行えば、修正してくださるに違いない。今僕は、祈りを持ってこれを書いている。あなたに祝福がありますように†

過ちを犯したら

私たちは不完全な人間。必ず過ちを犯す。
大切なのはその際に、神様に顔向けできるかどうか。

その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。

創世記 3:8 聖書協会共同訳

創世記 3:8 で神様の言いつけに背き、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムと妻は、「神である主の顔を避け」てしまった。

私たちは不完全な人間。必ず過ちを犯す。
大切なのはその際に、神様に顔向けできるかどうか。

顔向けできない愚かな私たちを救うために、救い主いえす基督が人となって、顔と顔とを合わせようと、私たちの世に来られた。

主いえす基督こそ、私たちの救い†

角の頭(かしら石とか、親石とか、かなめ石とかのお話)

この記事で扱うのは、マタイ 21:33 以下、マルコ 12:1 以下、ルカ 20:9 以下のたとえに出て来る言葉である。

新共同訳、協会共同訳では「隅の親石」と訳されている。口語訳では「隅のかしら石」。新改訳では「礎の石」、新改訳 2017 版では「要の石」と訳されている。

しかし、私は言おう。「隅」はおかしい。「角」ならわかる。では、隅と角とでは何が違うのか?

ギリシャ語では、ケファリ・ゴニアス(κεφαλή γωνίας)といい、ケファリは頭、ゴニアは角(日本語と同様に、かど、つの)を表す。よく知られているペンタゴンと言えば五角形のこと。これは、ギリシャ語のペンデ(五)とゴニア(角)が合わさってできている語である。つまり、ゴニアは頂点のこと、尖った部分を指すのだ。頭とは、当然ながら上にあるものを指す。アーチのてっぺん、いわゆる頂点を支える石は台形でなくてはいけないが、これを指す。

これは詩編の 118 編(七十人訳では 117 編)22 節からの引用である。その詩編の 19 節から読んでいくとわかるが、これはアーチ門の話をしている。だから、これは間違いなくこの頂点の石のことを指している。そして、その石は唯一である。だから、その石が誰かの上に落ちれば、その者は粉砕されると書かれている。建物の隅の石ならばどこに落ちるというのだろう。そして、建物の角ならば4つあるが、基督は唯一なので決して四隅の石ではない。そういう意味では新改訳 2017 の「要の石」が一番妥当な訳であると思われる。

ちなみに、ヘブライ語ではローシュ・ピンナー(רֹ֣אשׁ פִּנָּֽה)であり、ローシュが頭、ピンナーが角で、意味はギリシャ語と同じである。

「家造りたちの捨てた石が、角の頭となった。」

家造りには、正方形もしくは長方形の石が必要である。だから丸や三角や台形の石は家造りには不要なのだ。家は四隅から構成されている。4は被造世界を表す数字である。東西南北、春夏秋冬、上下左右などである。私たちが救いの石を捨てて、石なる主いえすは、十字架にお架かりになったのだ。4つの角がある十字架に。しかし、3日の後にご復活されて、角の頭となられたのだ。角とは2辺の間にあるもの。つまり、2つのものを合わせる唯一の重要な「角の頭」なのである。

King James では、the head (stone) of the corner(旧約のみ stone が入る)と訳されている。上記で述べた「角の頭」いわゆる通常英語で the key stone に当たるものを原語のニュアンスも入れてそう訳したのだろう。だが、後の英語訳になるとこれを the corner stone などと訳してしまうことになる。そうすると、英語では key stone ではない、corner stone、つまり隅の石となっていき、日本語訳にも影響したのではないだろうか。

完璧な翻訳などありえない。もちろん、原語であっても、同じである。神様のみ言葉が完璧に記されることなどないのだ。今はおぼろげに見ているが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになる。主は、主を捨てた私たちをどこまでも愛しておられ、また来てくださるのだから。マラナ・タ。

律法学者やファリサイ派

翻訳というのは、完璧にできないもので、当然、聖書原典であっても人間の言葉に過ぎないので、神のみことばを完全に反映することはできない。

そんな中でも、なるべく元来のニュアンスが伝わるように翻訳したいものだ。

さて、律法学者とかファリサイ派といった単語が今日の聖書では使われている。しかし、今日の日本に律法学者もファリサイ派もいないわけで、正直なところ、遠い昔の外国のある人々の集団という認識ではないだろうか。

しかし、聖書のみことばは、私たちに向けて語られている神様のみことばなのだ。律法学者と訳されている単語(グランマテフス)は、文字を扱う人のことであり、塚本虎二氏などは、聖書学者と訳すべきと書いておられた。律法学者よりも、その方が確かによいと私も思う。ただ、もっと言えば、ちょっと穿った訳となるが、「インテリ」という訳でもいいのではないかと思う。その方が私たちの身にも関係してくるからだ。

ファリサイ派と訳されている単語(ファリセオス)は、分ける人という意味であり、自分を俗世から区別している人のことを差す。カタカナでファリサイ派と言われても、私たちは自分に関係ない人たちのことと思ってしまうが、「宗教家」という訳語を揚げてみたい。

律法学者をインテリ、ファリサイ派を宗教家に読み替えて聖書を読んでみてほしい。主のみことばが、自分にも身に覚えのある諭しに聞こえてくるのではないだろうか。

結婚は黙示録を反映している

基督教会での結婚式は、神様と人間とが一つになることを象徴している。

式の中で、新郎が新婦のベールを上げる場面がある。ベールを上げる意味は、隔てを取り除くという意味である。

新約聖書の一番最後は、黙示録という文書がおかれており、他の聖書の部分が過去や現在を指しているのに対し、そこには来るべき終末の約束が記されている。この黙示録は一見、恐ろしいような描写が目立つが、神様を待望する者にとっても試練が来ることが書かれているが、最後は神様と一つになる希望が描かれている。

この黙示録は、ギリシャ語の原題では「アポカリプシス」という。「アポ」は出発点や離脱を表す言葉であり、「カリプシス」とは「蓋」という意味である。つまり、「蓋を取る」「暴露する」「タネを明かす」という意味であり、それは今までミスティリオン=神秘・秘密だったものが、すべて開示され、明かされることを示す。

今はまだ終末ではないので、わからないことだらけだ。人は死後どうなるかとか、終末はどうなるかとか、父なる神様、基督、聖霊のことや、天使とは何か、人類誕生の秘密、恐竜はどうなったのか、とか、部分的にはわかっているが、今はおぼろげに見ていることが多々ある。結婚式のときによく読まれる第一コリント 13 章にも、次のように書かれている。

私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。

コリントの信徒への手紙一 13 章 12 節

結婚式では新郎によって新婦のベールが上げられて、夫婦になって一つになる。これはまさに、今までベール越しにおぼろげに見ていたものを、顔と顔とを合わせて、はっきりと見、神と人とが一つとなる、という約束なのである。だからこそ、「神が合わせられたものは人は離すことができない」と言われているのである。
(「人は離してはならない」という訳も実際可能でそれが普及しているが、ここは「離すことができない」と訳す方が妥当であると私は信じている。以下にこのことについても補足しよう。)

ただし、結婚はそういう神秘を表してはいるが、私たち人間の結婚生活は当然、完璧ではない。残念ながら、離婚に至ってしまうケースもあるだろう。しかし、それは至らぬ結果に過ぎない。完璧な人間はいないのだ。それを他人も相手も本人も責めることはご法度である。裁くのは主なる神様おひとりだからである。完璧な歩みをする人間はいない。離婚に至らなかったとしても、完璧な夫婦として人生を送ることは我々には不可能なのである。そして、自分たちがどうあれ、神様の約束は決して変わらず、完璧であり、反故にされることもなく、ましてや人間の歩みなどによって左右されるものでもないのだ。それを信じるのが信仰である。

大切なのは、不完全で頼りなく、不確かな私たちであっても、その中に神秘を宿させてくださる、という神様からのギフト、プレゼント、愛の奇跡がある、ということである。

こんな不甲斐ない私たちであっても、神様は常に、基督によって愛していてくださる。感謝して歩もう。

神様の作品には価値がある

すべてのものは、神の御手によって、御子きりすとを通じて造られたと聖書には書かれています。つまり、この世のどんなものも、神様の作品なのです。私たちは、与えられた自由をはき違え、神様から離れ、感謝もせず、裏切るような歩みをしてしまう愚かな存在ですが、愛のお方である神様は、こんなわたしたちであっても、愛しておられるため、御子きりすとを救い主として、この世にくださいました。

このことを覚える礼拝行為が降誕祭、すなわち、クリスマスです。

きらびやかでも、豪華でもない、貧しい家畜小屋、これが救い主が来られたところです。ふかふかのベッドではなく、家畜の飼料を入れる飼い葉おけが、救い主が最初に寝かされたところです。でも、ここには本当の輝きと暖かさで満ち満ちていたと思います。

この恵みを心から味わうために、待降節とか降臨節とかアドヴェントとか呼ばれる期間を過ごして、降誕祭に臨みます。もしも、これを読んでおられるあなたが、まだ未体験ならば、ぜひ教会へ行かれることをお勧めします。なぜなら、すべてのものは神様の作品であって、神様は私たちを愛し、真の恵みを受けるように招いておられるからです。

みんなの救い主の降誕祭

クリスマスという呼称が一般的だけれど、僕はあえて、降誕祭と呼ぼう。日本語でカタカナの言葉は、単なる外来語の名称でしかないが、漢字では、そこに意味を込めることができるからだ。

クリスマスという言葉は残念なことに、もはや救い主のご降誕を心に刻む祭りというよりも、むしろ、信仰からかけ離れた派手な商業主義のキャッチコピーとして使われることが一般的になってしまっている。

本当の降誕祭の意味とは、以下のことを心に刻むことなのだ。

  • 神が私たちすべての人を愛し、憐み、大切な御子をくださったこと
  • 神が人となられたこと
  • 王なるお方が私たちよりも貧しくなられたこと
  • すべての人の救い主が来られたこと

私たちよりも低くなられたがために、下からすくうことがおできになる。そしてこれは、私たちのためのできごとなのだ。

~ 静かに、この喜びを噛みしめる過ごし方をお勧めします。

基督教での霊とは

「霊」というと、幽霊とか心霊写真とか地縛霊とか、通常日本語では亡霊を指すイメージが強い。総じて、怖いような、あまりよくないネガティブなイメージがある。しかし、基督教では、「霊」とは神と人間が持ち合わせる魂を指す。 これは、新約聖書では、プネヴマというギリシャ語で、そして旧約聖書にもヘブライ語でルアハという語で記されている。 「息」と訳すこともでき、また「風」と訳されることもある。「精神」とか「魂」と訳すこともできる。

ここで、この「霊」について、強調したい点がある。それは、

  • 動的な命の源であるということ。日本語の「亡霊」のような死んだイメージではない。
  • 神と人間しか持ち合わせていないということ。本来、神の本性。人は神に似せて造っていただいたから、持ち合わせている。

ということである。

そして、神の霊を「聖霊」と呼ぶ。神は唯一であられるけれども、私たちで言う人格に似た神格をお持ちであられる。三つの神格、すなわち、父、子、聖霊であり、このことを基督教会では、「三位一体」とか「至聖三者」と呼んでいる。父なる神、子なる基督、そして聖霊、このあたかも三者のようで唯一のお方を、基督教では「神」と呼んで礼拝している。

父はすべてのものの造り主であり、子はすなわち、イエス基督である。このお方は、人の罪の贖罪のために、十字架にかかられたが、これは決して神の一人芝居などではない。子はまさしく人の罪のために父から捨てられたのである。しかし、三日目に父は子を復活させられ、子は死に打ち勝った勝利者となられた。私たちは、どんな境遇であっても、どんな身分であっても、この復活の基督によって神に立ち返ることができ、赦される。基督は、私たちに神の国と再度来られることを約束して、天に昇られた。ご自身は昇られるが、父が聖霊をお遣わしになることを告げられた。基督ご復活の 50 日目に、弟子たちに聖霊が降られた。聖霊は、それまで弱く、人々を恐れていた弟子たちを強め、大胆に基督による救いの知らせを告げ知らせるようにされた。

父と子は人の中には入って来られないが、聖霊は私たちの内にも入られ、働かれる。

父と聖霊は目に見えないが、子は目に見え、触れることのできる体をもっておられる。

子と聖霊は私たちに親しく接せられ、私たちを父のもとへと導かれる。父はすべての源であられる。

栄光が父と子と聖霊なる三位一体の神にとこしえにありますように†