英語の仮定法 were のお話

 英語を習ったのは 30 年以上前の中高生の頃で、あまり英語との相性がよくなかったので、ずっと英語を使って来ず、ドイツ語やギリシャ語など別の言語に触れてきました。

 しかし、近年インターネットの普及などで、英語が世界共通語のように使われていることから、英語が必要になってきました。実際、仕事上などでも必要になってきており、再び英語をちょこちょこ学びなおしていたりします。

 英語の文法は、うろ覚えの部分が多々あって、習ったかもしれないけれども覚えていないなんてこともしばしばです。仮定法で、I was a bird ではなく、I were a bird と表現するということを、今日知りました。(でも、思い出してきた。この I were a bird という例文も Grammar II の教科書のものだったはず!) で、仮定法と言われているのは、接続法のことです(正確に言えば、接続法の一部)。Wikipedia でも接続法として扱っています。英語で subjunctive mood なので、接続法の方がそのままの訳語です。

 印欧語では、接続法の場合には接続法独特の変化をします。英語は他の印欧語と比べて文法簡略化が多いので、過去形を使うのだと思います。そして、were で統一するのは、現実離れした仮定法だとわかる、ある種のマーカーとなっているのだと思います。(ドイツ語などでは、ウムラウト化などが接続法のマーカーとなっている)

 ただ一つ、興味深い例を見ました。ある記事に書かれたコメントなのですが、以下に引用します。

私は30年ほどイギリスに住んでいますがイギリス人もwasを仮定法過去に使います。しかしwereも使うんです。例えばI wish I were you. (うらやましいなあというような時。)。この時は絶対I wish I was you. とは言いません。(むろんアメリカ人や英語が母国語でない人はたまにそう言いますが。)それに対してI wish I was in Bermuda.(バミューダに居たいんだけどな)というような時にはwereを使うことは全くありません。むろんイギリス人の大卒の友人はこれが間違ってるかもしれないと日本人に言われても聞き入れません。みんなそう言うからです。詩的な、古い言い方ではそうなんじゃないのといっても否定します。I wish I were in Bermuda. なんて不自然だというのです。 現代英語の用法は日々変わっているしオーストラリアや南アフリカではこの辺をどういうかもはっきりわかりません。友人の南ア人も I wish I was in~と言います。同じbe 動詞でも~であるという意味の時と~にいるという時では違うのではないいかと考えたりもします。。 仮定法過去でwasを使うのは文法的に間違いだと断言するだけではちょっと説明不足気味かと思います。


http://learnenglish111.com/wish-i-were/#comment-73

 つまり、I were a bird と I wish I was in Bermuda とは別の用法だということです。方や実現不可能、方や実現可能。接続法(仮定法)とは、現実との乖離を表します。過去形は思い出しつつ、話者の心の中を描写しているので、接続法に使われるのは妥当です。接続法は心の中を描写するからです。
恐らく、可能性は低くても現実的に実現可能な場合は過去形を使用する接続法、実現不可能な場合はすべて were を使用する非現実接続法(いわゆる仮定法)ということなのだろうと思っています。

 もちろん、英語は世界で広く使われている言語なので、文法や用法の差異などはあると思いますが、現実離れするにしたがって、直説法現在(現在形を使用)→直説法過去(過去形を使用)→接続法現在(過去形を使用)→仮定法(were ばっか)という感じで覚えておくことにします。

 この問題に対する英語話者たちの議論が面白いです(Hans Adler 氏の回答はなかなか興味深いです。当然ながら英語ですが)。そして、ここから辿れるリンクにも、色々と興味深いことが書かれています。
https://english.stackexchange.com/questions/44706/was-or-were-in-subjunctive-clauses

 そして最後に、過去形というものについて、とっても分かりやすく、大いに同意できる内容を配信している動画を挙げておきます。(実はこの記事を書くきっかけとなったもの)
意外と知られてない真実。 【英語の時制/現在形・過去形】

嘆かわしい日本における「言語の中央集権主義教育」

今回は少し憤って投稿。日本における教育で、画一性を重んじ、多様性を認めないことについてだ。

Forvo という単語の発音を投稿するサイトがある。その単語がどのように発音されるものなのか、母語話者が発音を投稿するサイトで、イスラエルで開発された。僕は一時、355 単語もの録音をした。また、管理ボランティアもしていた。ただ今は、このサイトの仕組み自体に限界を感じて、関わっていない。

そこに投稿音声に対しての評価ができるようになっているのだが、共通語のアクセントでないと、評価マイナスをつける日本人が多数いるのだ。僕は、名古屋ことばの発音で録音している。だから、投稿数は多いが、その評価はひどいものである。マイナスだらけだ。発音したユーザーの出身地がが地図で明示され、言語的背景となるプロフィールがあるにもかかわらずである。当然、僕は名古屋の中区の大須で育ち、共通語とは異なるこの地方のアクセントで発音していますと明記している。

英語でも、日本ではアメリカ発音がスタンダードであると思わされている。シンガポールやインドなど英語を公用語としている国は沢山あるし、そうでなくても、英語は今や国際語の一つである。そこで色々な発音や色々な文法、綴りなどが存在し、そのどれが国際的標準なんてことはないのだが、日本における英語の認識は、本家のイギリスすら差し置いて、アメリカ一辺倒という印象を感じずにはいられない。

言語は生きた道具である。だから、使われる場所、人、文化、年代、分野などによって様々なのだ。もっと言えば、人によって一つとして同じ言語ではありえないのだ。そのあいまいな定義の言語同士をぶつけ合ってコミュニケーションが生まれる。当然、誤解も生まれるが、それはコミュニケーションしている者同士の言語に差があるから生じることも多いのだ。でも、そこで相手を理解しようとし、それができたとき、新しい理解の和が生まれるのだ。

言語は決して、静的な(死んだ)単一のものではない。たとえ一人の人の中の言語でも、それは流動的に生き、変わり続けるものなのだ。

日本人が外国語をなかなか話せないのも、「こう書かなくてはダメ」と、話すこともできないうちから、テストの答案に簡単に×をつけられてきたからだと思う。文法的に間違っていたって、言語は通じれば、それで用を成すのだ。そもそも、文法自体も様々だったり、変化したりするものだ。例えば、名古屋ことばでは可能動詞はすべて「れる」で終わる。共通語では「食べれる」は「ら抜き言葉」で間違いかもしれないが、名古屋ことばでは正しく、「見れる」「来れる」「飲めれる」「歩けれる」のようになる。つまり、日本での言語教育は、画一的な視点のみで、最初から生きた言葉を教えようとしていない。

いわゆる「標準語」についての一般的な認識が狂っているのも、教育に問題があると思う。ありのままの多様性を尊重し、認める教育が必要だと感じる。

外国語の命令形は命令か?

英語など、最初に習う外国語学習での体験やインパクトなどの影響は、大きい。僕は常々、外国語の文法で目にする「命令形」や「命令法」といった名称は、改称した方がいいのにな、と思っている。
一体、僕らが日常日本語を話して暮らす中で、命令をする頻度ってどのくらいなのだろう? 会社などで、部下を率いている人は、使用頻度が多いのかもしれないが、少なくとも僕は、何年も前に飼い犬が死んで以来、命令なんて、とんとしていないと思う。
犬に対してであっても、「来い」などという命令口調ではなく、「おいで」と接していた。「おいで」は命令の内に入らないとすれば、ひょっとしたら、もう何十年も命令とは縁がないのかもしれない。
しかし外国語では、僕らが「命令形」だと習った語法が頻繁に使われる。外国人は命令が好きなのか? いや、そんなことはない。そう、これは命令ではないのだ。命令にも使える文法なのだが、ほとんどは「示唆」や「勧奨」なのだ。
sit down! は、ほとんどの場合「座れ!」とか「座りなさい!」とかではなく、「座って」であり、eat more! であれば、「もっと食え!」とか「もっと食べなさい!」とかではなく、「どんどん食べてね」みたいな感じだ。いわゆるビックリマークも、叫んでいる訳ではない。文法的に必要なだけだ。英語で自己を示す I を大文字にしても別に特段、自己顕示欲が強いという訳ではなく、文法的にそう決まっているからそう書く、いうのと同じだ。
名は体を表すというように、名称は大切だと思う。ならば「命令形」ではなく、「勧奨形」くらいにすればいいのに、と思う。
今日読んでいた日本語訳の聖書の個所には、「喜びなさい」と書かれていた。もちろん、この訳でも良いだろうが、僕は名古屋人なので、「喜びゃあ」の方がシックリ来る。「~しなさい」というのは、名古屋人である僕には冷たくキツく聞こえるからだ。方言は、共通語よりも豊かな表現ができる場合が多い。互換性や共通性が大きくグローバルになればなるほど、機能が失われるのは、技術でも言語でも同じだ。あまり互換性のないローカルなものほど、多くの機能を有しているというのは、物事の常である。この辺の話題は、また別の記事に書くとして、いわゆる「命令形」なるものは命令として使われる頻度は少ないということが言いたかったのだ。
僕は、さっきの例文なら自分なりに、以下のように解釈している。
sit down! ⇨座りゃあ
eat more! ⇨まっと食べてちょ