基督教での霊とは

「霊」というと、幽霊とか心霊写真とか地縛霊とか、通常日本語では亡霊を指すイメージが強い。総じて、怖いような、あまりよくないネガティブなイメージがある。しかし、基督教では、「霊」とは神と人間が持ち合わせる魂を指す。 これは、新約聖書では、プネヴマというギリシャ語で、そして旧約聖書にもヘブライ語でルアハという語で記されている。 「息」と訳すこともでき、また「風」と訳されることもある。「精神」とか「魂」と訳すこともできる。

ここで、この「霊」について、強調したい点がある。それは、

  • 動的な命の源であるということ。日本語の「亡霊」のような死んだイメージではない。
  • 神と人間しか持ち合わせていないということ。本来、神の本性。人は神に似せて造っていただいたから、持ち合わせている。

ということである。

そして、神の霊を「聖霊」と呼ぶ。神は唯一であられるけれども、私たちで言う人格に似た神格をお持ちであられる。三つの神格、すなわち、父、子、聖霊であり、このことを基督教会では、「三位一体」とか「至聖三者」と呼んでいる。父なる神、子なる基督、そして聖霊、このあたかも三者のようで唯一のお方を、基督教では「神」と呼んで礼拝している。

父はすべてのものの造り主であり、子はすなわち、イエス基督である。このお方は、人の罪の贖罪のために、十字架にかかられたが、これは決して神の一人芝居などではない。子はまさしく人の罪のために父から捨てられたのである。しかし、三日目に父は子を復活させられ、子は死に打ち勝った勝利者となられた。私たちは、どんな境遇であっても、どんな身分であっても、この復活の基督によって神に立ち返ることができ、赦される。基督は、私たちに神の国と再度来られることを約束して、天に昇られた。ご自身は昇られるが、父が聖霊をお遣わしになることを告げられた。基督ご復活の 50 日目に、弟子たちに聖霊が降られた。聖霊は、それまで弱く、人々を恐れていた弟子たちを強め、大胆に基督による救いの知らせを告げ知らせるようにされた。

父と子は人の中には入って来られないが、聖霊は私たちの内にも入られ、働かれる。

父と聖霊は目に見えないが、子は目に見え、触れることのできる体をもっておられる。

子と聖霊は私たちに親しく接せられ、私たちを父のもとへと導かれる。父はすべての源であられる。

栄光が父と子と聖霊なる三位一体の神にとこしえにありますように†

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